今日、8月21日は――
1535年(天文4年7月23日)、鎌倉時代以来の名門島津氏を支えた、九州の戦国大名・島津義弘(しまづ・よしひろ)が生まれた日です。
戦国時代から安土桃山時代にかけて薩摩国を治め、勇猛果敢な武将「鬼島津」として、当時から名を馳せていました。
島津氏第15代当主貴久の次男として生まれた義弘は、天文23年(1554年)、祁答院氏・入来院氏らと干戈を交えた岩剣城の戦いで初陣を飾ると、その3年後の弘治3年(1557年)には、5本の矢を鎧に受けながらも、初めて敵の首級を挙げました。
元亀3年(1572年)に起こった木崎原(きざきばる)の戦いでは、3,000もの軍で進撃してきた伊東氏を、たった300の兵で撃破。後の慶長の役では、朝鮮と明の連合軍数万の敵を7,000の兵で潰走させ、「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれるほど、その智勇が語り草となりました。
関ヶ原の戦い(慶長5年9月15日/1600年10月21日)でも、義弘の鬼神ぶりは発揮され、300人ほどまで減った兵とともに、徳川家康率いる東軍への敵中突破を試み、「捨て奸(すてがまり)」という戦法を用いながら、ついに戦場から離脱しています。
しかし、義弘と一緒に薩摩へ帰還できたのは、わずか80人ほどしかおらず、その激戦のほどがうかがわれます。
隠居後、若者の教育に熱心だった義弘は、元和5年7月21日(1619年8月30日)、享年85(満83歳)、大隅の加治木で亡くなりました。13人の家臣が殉死するほど、慕われていた武将だったのです。
「捨て奸」ってどんな戦法?
軍が退却する際、殿(しんがり)の中から少数の兵をさらなる殿として退却路に留めておき(殿の殿)、追撃してくる敵に対して、最後尾を固める彼らが全滅するまで足止めさせます。その殿の殿が突破されると、何度でもこれを繰り返し、守り切るべき本隊が戦場を脱出するまで時を稼がせます。まさしく文字通りの捨て身戦法です。
8月21日
今日の歴史的事件
島津義弘誕生
[平成30年(2018)8月21日]掲載