今日、8月20日は――
1864年(元治元年7月19日)、京都御所外郭西側にある蛤御門付近で、長州藩兵と会津・桑名両藩兵との間で武力衝突が起こった日です(蛤御門の変、禁門の変、元治甲子の変)。
文久3年8月18日(1863年9月30日)に起こった八月十八日の政変のために、京都から追われていた長州藩が挙兵しました。
挙兵の目的は、入京許可、藩主父子と五卿の冤罪主張、尊攘派の勢力挽回、京都守護職を勤める会津藩主・松平容保の排斥などと言われています。
新選組も参加したこの戦いは、会津・薩摩両藩を主として御所を守る幕府側の勝利で終わりましたが、戦火にまみれた京都市中は三日三晩にわたって燃え続け、なんと2万8千戸もの家屋や寺社が消失し、多くの住民が被害を受けたのでした。
来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一、真木和泉ら、中心人物を亡くしたうえに、この蛤御門の変をきっかけに朝敵となった長州藩は、数か月後、第一次長州征討で徳川幕府が編成した征長軍と戦うこととなりました。
蛤御門はどんな門?
正式には新在家御門(しんざいけごもん)と呼ぶ蛤御門は、現在の京都御苑外郭(京都市上京区)に立つ九門の一つで、高麗門型の筋鉄門という形を成しています。
宝永5年3月8日(1708年4月28日)に起こった宝永の大火の際、住民を避難させるために門を開いた様子を、火に炙られて口を開けるハマグリになぞらえて名付けられたといわれていますが、命名には諸説あるようです。
大火の際には、開かずの門と呼ばれたこの門を開けずにはいられなかったほど、大きな火炎やひどい黒煙が立ち上ったのでしょう。
幕末を語るには欠かせない蛤御門の変が、日本を開いたきっかけになったのかもしれません。
そんな蛤御門には、今でも戦いの時に飛び交った数多くの弾の痕が門柱に見られるそうです。
8月20日
今日の歴史的事件
蛤御門の変(禁門の変)
[平成30年(2018)8月20日]掲載