頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第20回 「近藤重蔵と近藤富蔵 寛政改革の光と影」(山川出版社)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー20

近藤重蔵と近藤富蔵―寛政改革の光と影 (日本史リブレット)「近藤重蔵と近藤富蔵 寛政改革の光と影」
(谷本晃久、山川出版社(日本史リブレット058))

 本書は近藤重蔵とその子近藤富蔵の生涯を概観したものです。
山川出版社から出ているシリーズ『日本史リブレット』の58番目の本です。本シリーズは、日本史と世界史の人物を取り上げていますが、一人一冊というわけではなく、本書のように親子や関係する複数人を一度に扱っているのが特徴です。むろん、一人一冊もあります。
 本シリーズは、だいたい100ページ以内で取り上げた人物の生涯と時代背景をおおまかにつかめるのが特徴で、入門書として最適ではないかと思っています。
 近藤重蔵といえば、「江戸時代後期の幕臣(旗本)、探検家。諱は守重、号は正斎・昇天真人。5度にわたって蝦夷地探検」を行い、「『大日本恵登呂府』の標柱を立てた人物として知られる一方、書誌学や北方地図作製史の分野でも論じられている人物」です。(注1)
 しかしながら、本書はその副題に「寛政改革の光と影」とあるように、寛政の改革近藤重蔵の歴史への登場の道を開き、その才能と相まって大きな輝きを放つと同時に、その改革の火が消えるのと併せて輝きを失っていく過程を重蔵の変転に寄り添い、その心情にを推し量りながら描写しているのが特徴です。併せて、嫡子富蔵の運命とともに……。
 私が本書を紹介するのは、そのテーマと同時に、近藤重蔵という人物が、徳川幕府御家人のまさに光と影を体現した人物だと思われるからです。
 近藤重蔵守重は、御先手鉄砲組与力を勤める近藤右膳守知の子です。
御先手鉄砲組とは、その名の通り戦場で先鋒を承る鉄砲隊のことです。与力ですから同心を率いる小隊長といってよいでしょう。番方の役職ですので、平時は江戸城各門の警護にあたりました。
火付盗賊改の増役(応援)として動員されることもありす。事実、火付盗賊改長谷川平蔵のときに江戸市中見回りへ動員されているようです。(6頁)
江戸町奉行所の与力は給地で200石です。御先手組の与力も同じでしたが、重蔵が跡を継いだ頃には、80石(玄米)の蔵米取りに改められていたようです。80石とは228俵1斗7升余のようですが、面倒なので従来の標記に従います。
ちなみに、御先手組の与力は、一代限りの抱席ですが、実質世襲のようになっていました。また、非番の多さとある程度の収入の多さから、学芸、武芸等に耽溺し、御徒のように出世思考は強くなかったようです。(7頁)
しかしながら、重蔵は違いました。寛政6年(1794)に実施された第二回の学問吟味に応じて、丙科及第という判定を得ます。このときの及第者は69名(甲科37名、乙科14人、丙科18人)でした。甲科には、大田南畝蜀山人)、遠山景晋(江戸町奉行遠山景元の父)がいました。
本書は、折に触れて重蔵の心情に寄り添うように記載されていますが、学問吟味の結果については、立身の始まりとしているだけで、その心情を推量していません。私は、このときの丙科及第(内心は甲科及第を望んでいいたのではないかと思っています。)こそ、重蔵の落胆とそれゆえに長崎奉行手附出役という抜擢に勇躍したのではないかと思っています。御先手轍鮒組与力は、上記のような事情で他職に抜擢されることはまずないからです。
重蔵を抜擢したのは、試験監督を務めた中川忠英という旗本です。中川は、自分が長崎奉行に任じられたことから、重蔵を抜擢したものと思われます。
 長崎奉行手附出役を命じられて後の重蔵の職歴は以下の通りです。

 


(37頁の表をもとに一部修正、原則1俵=1石と見て比較願います。)

 重蔵は、旗本・御家人という家格によらず各自の資質に応じた役職が与えられるべきという考え方を持っていたようです。ゆえに筆者は、抜擢された役目をこなし、さらに高見を望む、そんな生き方が後年の刃傷沙汰につながっていったと見ているようです。(14・15頁)
近藤重蔵といえば、蝦夷地調査が有名で、先に述べたように択捉島に建てた「大日本恵登呂府」の標柱が大きな事蹟として評価されています。
重蔵が蝦夷地に関心を持ったのは、長崎奉行手附出役として長崎に赴いたときにロシアを知り、国際情勢に目覚めたのがきっかけだと思われます。重蔵は、蝦夷地を幕府直轄とする考えを持っていたようです。
しかしながら、この考えは重蔵を引き立ててくれた中川忠英及び寛政の遺老(注2)たちの考えであり、当時は一橋治済、水野忠成など松前氏に任せようとする考えを持つ人達もいました。将軍家斉の親政を巡って派閥抗争のような状況があったのです。
最終的には水野忠成派が勝利することとなります。そのため重蔵は、番方の大坂御弓奉行へと追いやられてしまいます。左遷といってよいでしょう。このとき重蔵は、48歳の働き盛りでした。
大坂御弓奉行は、1月にわずか3日櫓を見回り、武器数取調を行うだけの閑職だったようです。(65頁)
働き盛りの重蔵にとって、閑職は苦痛だったようで、無断で大坂城下を離れて有馬温泉に外泊したりとかなり先例を逸脱した行いが多かったようです。その態度が傍若無人とみられたのでしょう。幕府の忌避するところとなり、結局、江戸に召喚され、差控を命じられて小普請入りすることとなります。(66・67頁)
子息富蔵とも確執を抱えた重蔵は、その富蔵の起こした事件に連座して、近藤家は改易、自身は近江国大溝藩主分部左京亮御預けとなってしまいます。
大溝陣屋の獄舎に幽閉された重蔵は、失意のまま文政12年(1829)6月、享年59歳で世を去ります。
その生涯は、今日のサラリーマン(御家人なのでノンキャリの公務員でしょうか)の栄光と悲惨、光と陰を象徴しているように私には思われてなりません。

(注1)ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E9%87%8D%E8%94%B5

(注2)寛政の遺老については、「頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー18」を参照願います。

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