雨宮由希夫

書評『政宗の遺言』

書名『政宗の遺言』 
著者 岩井三四二
発売 H&I
発行年月日 2018 年8月5日
定価  ¥1800 E

 

政宗の遺言

政宗の遺言

 

 

 戦国武将でありながら、近世初めの太平の世まで生きた伊達政宗の最晩年を、政宗の御側近くに仕えた小姓たちの眼を通して描くことにより、とかく梟雄のイメージで語られることの多い政宗の真の像に迫った歴史小説である。

 時代背景は大坂の陣より20年以上が経た寛永13年(1636)1月、70歳の政宗が「名残りの鹿狩り」を愉しみ、鹿狩りの後、政宗が小姓たちに、政宗の父・輝宗が不慮の死を遂げた政宗生涯で最も苛烈な試練を語り聞かせるシーンから物語は始まる。
 18歳で家督を相続した政宗はその翌年の天正13年(1585)10月、敵将畠山義継の姦計で拉致される父輝宗を義継もろとも射殺すことを命じねばならないという悲劇にみまわれる。翌年11月の人取橋の戦いは輝宗の弔い合戦であった。
 寛永13年4月20日、自らの死期を悟った政宗は参勤し、将軍家光に最後の挨拶をすべく仙台を出発。江戸着は4月28日。政宗の臨終は5月24日未明である。

 本作の”影゛の主人公というべきは瀬尾鉄五郎である。17歳の鉄五郎は政宗に近侍する小姓の中でもっとも新参の小姓、かつ黒脛巾(くろはばき)組のひとりとして、政宗の死を看取る形で政宗の身辺近くに常在している。
 元小姓で、大番士で百石取りの佐伯伊左衛門は警護役としては老齢だが参勤の行列に加わっている。“政宗語り部”を自任する「じいさん」伊左衛門の話を聞くことが鉄五郎ら若い小姓の楽しみとなっている。
 じいさんが人取橋の合戦から小田原参陣へ、葛西・大崎の陣、朝鮮の陣、秀次事件、関ヶ原の合戦大坂の陣と、昔から順々に話していくので、読者は問わず語りで政宗の一代記が聞ける。が、じいさんにもお人好しの語り部というのは目くらましで、政宗の謎にからんだもう一つの顔があることが物語の進行とともに明らかになる。


 「生まれてくるのが、10年遅かった」と政宗自身慨嘆したと言われる。 本能寺の変を16歳で迎えた伊達政宗は永禄10年(1567)生まれで、徳川家康より25歳、豊臣秀吉より30歳年少である。
 天正17年(1589)、23歳の政宗は東北戦国に終止符を打った大戦・摺上原の戦いに勝利して蘆名氏を滅ぼし、南奥羽の大半に君臨する大大名になる。青年政宗の野望の炎は燃え盛り、不敵な心は中間を夢に描いていたことだろう。しかし、その前々年の天正15年(1587)12月、関白豊臣秀吉は関東奥羽惣無事令(私戦禁止令)を発令している。つまり天下はもうすでに秀吉の掌中にあったのである。政宗が蘆名氏を滅ぼした天正17年の時点で、秀吉に心中していないのは、関東の北条氏と奥州の諸大名だけだった。
 政宗には北条氏と手を結び秀吉の天下統一に歯向かうか、小田原に参陣して秀吉に服属すべきか、の選択肢があり、直前まで迷っていた。
 奥州統一の野望を隠さず、さらに天下への野望をたくましくしていた政宗であったが、終には、天下人・秀吉の前には屈せざるを得なかった。


 小田原参陣をめぐる秀吉への抗いに、生母による毒殺事件がからんだ。
 じいさんは「殿様の名誉にかかわること、そなたらの口からあまり広言してほしくない」と前置きして、政宗が母お東の方(義姫、保春院)に毒を盛られた毒殺未遂事件を語りだす。

 政宗の時代、ひとつ処置を間違えば、伊達氏は滅亡の運命にあった。政宗自身の生涯のみならず、近世大名としての伊達家の方向を決めた天正18年(1590) 4月から5月にかけての政宗をめぐる動きはその真偽や背景を吟味する必要があり、本作前半の最大の山場のひとつである。
 政宗は小田原に参陣しようとした日の前夜の4月7日、実母に毒を盛られる。溺愛する次男小次郎を跡目にしたい母お東の方がその兄・出羽国山形の領主最上義光と組んで、政宗を毒殺しようとしたのだ。やむなく政宗はその禍根を断つべく一つ年下の弟小次郎を斬り、母を追放した。秀吉の北条討伐という大事件が進行しつつある中での出来事である。

 

 かくして5月9日、会津黒川城を出発、6月5日 やっと小田原着。北条氏の降伏は7月5日のことであった。まさに間一髪、ギリギリのタイミングであった。北条氏降伏の後であれば、政宗の死を覚悟した行動も何の意味も持たなかったであろう。
 秀吉は宇都宮城で奥州仕置を行う。政宗は小田原遅参を理由に本領の米沢に戻され、蘆名氏から奪った会津は奥羽仕置の代理人とされた蒲生氏郷に与えられた。
 氏郷の会津移封直後の天正19年(1591)に大崎葛西一揆が起きる。小田原に参陣せず領地を没収された大崎義隆、葛西晴信の旧領で起きたこの事件の真相ははっきりしない。政宗一揆勢と通じていたとする説もある。とりあえず政宗は氏郷とともにこの一揆を平定するが、一方、氏郷は秀吉に対し「政宗一揆を扇動している」との告発を行っている。喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、本作では、政宗と秀吉とが組んで打った一芝居としている。ここでも、政宗は曲者ぶりを発揮する訳だが、本作の作家はじいさんに「ある日突然にわが庭へ踏み込んできて、主人面をする上方の者たちへの反感は当然あったじゃろ」と語らせている。政宗に九戸(くのへ)政(まさ)実(ざね)と通ずる奥羽の武将の反骨をかぶせているのである。

 

 政宗の生涯は大きく関ヶ原の戦いを境として、大きく二つに分けられよう。前半生は戦国の世を生き抜き、一時は天下をも睥睨した青年武将として関ヶ原にいたるまで。後半生は関ヶ原の戦いより、家康の徳川家に仕えて生涯を終えるまでである。
 関ヶ原の戦いでは政宗は百万石のお墨付きという家康との約束を反故にされた。とすれば、伊達家はあまり徳川家に恩を受けていないことになるが、死を目前にした政宗は徳川家には深い恩があるという。伊達家と幕府の関わりをそもそもの初めから知りたい鉄五郎は「関ヶ原から今日まで、殿様と幕府との間に何があったのか」と不思議に思うが、じいさんは関ヶ原までは「わが家の合戦譚」で関ヶ原以後は「弓矢を使わぬ合戦の話」になるとうそぶく。
 幕府は外様の雄藩たる仙台藩62万石の取り潰す材料を鵜の目鷹の目で探している。「政宗の遺言」の謎を解く鍵はそこにあるのか。

 本作後半の読みどころは政宗による遣欧使節の派遣である。
 仙台藩伊達政宗大坂冬の陣の前々年の慶長18年(1613)9月、家臣の支倉常長を遣欧使節の正使として、メキシコ、スペイン、およびローマに派遣している。
 ローマ教皇に「日本国奥州王」としての国書を呈したこの使節が何を目的として派遣されたか。ローマ教皇に宣教師の派遣とスペインとの通商の斡旋を求めたにすぎないとする説もあれば、ローマ教皇の力でスペインと軍事同盟を結び、幕府転覆を計画し、秀忠に代わって政宗が将軍職に就き、日本の支配者になることを策したとする説もある。なお、使節派遣後の慶長19年3月には家康による大禁教令が発令されている。この微妙な時点で、未だ独眼竜政宗の天下への野望は消えていなかったとみるのは面白いが、本作の作家岩井(いわい)三四二(みよじ)の解釈はいかに。
 「伊達家をゆるがす書状」の存在と、政宗の内に秘めた意思が鍵となる。これから読もうとされる読者のためにそれを解き明かすことは差し支えよう。
 政宗の側近くに仕え政宗最期の声を聞く長五郎だが、政宗が今わの際に発したことばは、「母上」の四文字であった、とのみ記しておこう。

                                              (平成30年8月8日  雨宮由希夫 記)