このお話は、若くして豆腐の角に頭を打ち、はるばる江戸時代からタイムスリップしてきた浪人が、末法の現代をバーテンターとして生きるその日々を、虚実、酒色ないまぜに綴ったものである。
 北の街にひっそりたたずむ『浪人酒場』の四方山話を、どうぞまったりとお楽しみください。

第1話

食欲25メートル

 私が、江戸の昔から現代の日本にやってきて一番しまったものは、甘味である。スイーツである。コンビニの菓子もしかり。これだけおいしいものが手軽にどこででも買えるというのは、何か巨大な陰謀ではないかと思えるほどだ。江戸の時分には菓子や果物の種類も少なかったし、看板娘で客を引いた水茶屋にも、茶菓子目当てで通っていた独り者は皆無である。
 私が初めて、コンビニのスイーツ〝クレープに包まれたレアチーズいちご〟を口にした時の感動は、いまだに筆舌に尽くしがたいものがある。あれは当時、二百円もしなかったはずだ。人の世の、数少ない真の幸福のひとつであろう。
 ――そういうものを食べすぎるので、真っ昼間から市民プールにきて、水中ウォーキングなどするはめになる。
 武芸十八般、水練も得意だったはずなのに、世俗にまみれて中高年にさしかかると、すべては幻だ。節々は、我にまことを語りけり。ぜいにくもしかり。
 うららかな春の日だった。ウォーキングレーンに入水し、いそいそと歩きはじめた私は、いきなり横波に襲われて腰砕けになった。私の横をすれ違っていったのは、二人の巨大な娘であった。絶妙なサイズ感で、どちらかが精神的優位に立つ余地はない。デブ、間違えた、アブ・シンベル宮殿の立像のようだ。

「こないだの、ヨガ教室よかったよね!」

「キャベツダイエットとか、どうなんだろう」

「それなら、酵素ドリンクのほうがよくない?」

 ダイエットトークに花が咲いている。食べるだけ、飲むだけでせたいという虫のよさが臭うものの、こうしてプールにきているのだから、行動力はあるということだ。
 私は感心しながら、レーンの隅を歩いた。やがて、折り返してきた二人の会話が聞えてきた。

「肉食べたくない?」

「食べたい! 最近生ラムにはまっててさあー」

「どこにする?」

「クーポン使えるとこ。食べ放題あるといいよね」

 二人は、ざあーっと豪雨のようにすいてきしたたらせながらプールから上がると、楽しそうに去っていった。私は、カバの水浴びを思い出した。いつだったか動物番組でやっていた。彼らは、ダイエットのために水場へきていたのではない。
 そして私は、帰り道にコンビニへ寄り、クッキードームシューを買った。

おしまい。

杉澤 和哉

すぎさわ かずや

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