三
坊津は加世田から南西にあたり、複雑に入り組んだ海岸の地形を活かした湊である。ひとつの湊ではなく、坊、泊、秋目などの浦の総称として、坊津と呼ばれていた。
日本から中国に向かう船の出発点、まさに、
――陸が終わり、海が始まる所。
である。一方、薩摩半島の東南側には、山川湊という火山の噴火口がそのまま湊になったような所である。
これらの湊が島津家の直轄支配を受けるのは、又四郎の兄・又三郎、つまり義久が島津家当主になってからのことである。
だが、又四郎たちの父・貴久は十五代当主として、形式ではあっても、薩摩、大隅、日向の守護として、敢然と実績を重ねていた。父の日新斎が、勝久や宗久との複雑な分家同士の争いを終わらせ、島津家の本宗家は貴久が継ぐことに安泰していたからだ。北郷家ら有力な豪族らも、貴久のことを守護として認めていたからである。
今後、大隅の蒲生氏や薩摩の菱刈氏や入来院、さらには日向の伊東氏らを屈伏させるためには、古来より続く交易を掌握することが肝心要であると、日新斎は常々、貴久に説いていた。
「所領は土地だけとは限らぬ。かつて、関東の北条氏は、南西諸島まで支配していた。とはいっても、地頭や郡司による上納の仕組みだけであって、我ら島津のように七島衆ら海民を従わせていたわけではない」
日新斎の指示を仰ぐまでもなく、貴久は三国を実質支配するには、交易の拡大しかないと考えていた。薩摩は元々、土地も痩せており、その地形も、田畑を広げて作物を増やすのに適していない。おのずと中国や琉球との交易を増やす道しかないのだ。
薩摩の南の海には、種子島、屋久島、中之島、諏訪之背島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島など多くの諸島があり、東シナ海の航路の大動脈であった。
これらの島々が、薩摩藩領とされるのは、慶長十四年(一六〇九)のいわゆる〈琉球侵攻〉以降になるが、当時は琉球王朝と薩摩の間で対等の交流がされていたのである。
第5話: 遙かな海〈三〉 (1/6)
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