第1話
序
霧雨の煙る
その前で、ひとりの若者が佇んでいた。
下級武士か郷士であろうか、屈強で立派な体躯ではあるが、粗末な継ぎ接ぎだらけの着物や野袴は丈が短く、いかにも貧しさと闘っている風貌であった。禄高もろくにないから、厳しい野良仕事も毎日、繰り返しているに違いない。手足は太く、分厚い掌は泥が染みついたように黒ずんでいた。
蓑笠もつけていないので、霧雨とはいえ、束ねただけの総髪は、墨を含ませた筆のようにぐしょり濡れていた。地蔵塔に掌を合わせるでもなく、瞑目するでもなく、若者は情景と同化したように佇んでいるだけだった。
「――見かけぬ顔だが、何方かな……」
ふいに背後から声がかかった。
若者が振り返ると、そこには少し腰の曲がった白髭の老人が、杖を突いて立っていた。野良着姿だが、どことなく気品が溢れており、紅殻色の番傘だけが、山水画のような霧雨の中で妙に
ほんの一瞬、若者は驚いて目を凝らしたが、伸び放題の白髭には、仙人のような温もりがあって、目は笑っている。
「儂は、この辺りの
妙円寺の開基は、島津一族の
若者は遠慮がちに小さく頷いただけで、背中を向けて立ち去ろうとした。
「逃げることはなか。お若いの……ここに眠る
老人は顎髭を撫でて、引き留めるように若者に声をかけ、勝手に語りかけた。
「おぬしの顔はなかなか武骨で、意志は強そうに見えるが、心の奥は色々な迷いや苦しみが渦巻いておるようじゃな。なに、儂のように、余った命ばかりで長らえておると、おぬしのような若いもんの気持ちが、手に取るように分かる」
微笑みを浮かべた老人は、雨でぬかるんだ足場も気にすることなく、若者に近づいてきた。杖を突きながらではあるが、その足取りは能楽師のような趣の、しっかりとした摺り足であった。
「迷いがあれば、仕えし主君の後を追って切腹をすることなど、できはしまい」
「……」