その日、なにが起こったか? 今日の歴史的な出来事

10月31日
今日の歴史的事件
最大の自由民権運動・秩父事件が起こる

 今日、10月31日は――




最大の自由民権運動・秩父事件が起こる

 自由民権運動の渦中、埼玉県秩父郡を中心に、自由党員と農民が武装蜂起した日です。
 明治17年(1884年)10月31日のことでした。

 当時、秩父の山間地域では穀物の自給が困難で、多くの農家が養蚕業や製糸業を営んでいましたが、明治14年(1881年)以降の不況と松方財政(デフレ政策)のため、経済的打撃を受けてしまいます。
 ほかにも、地方税引上げや学校開設費、新道整備費の徴収が重なり、より一層苦しめられました。
 また、横浜が開港された後、生糸が国際商品化したため、日本全国の養蚕農家の生活が世界経済の影響を受けるようになり、この時期が世界的な不況であったことも、農民を苦しめたのです。
 このような事情で仕方なく高利貸しから借金した農民でしたが、やがて利子率が法外に上昇し、返済できなくなってしまいました。

 窮乏した農家の破産や夜逃げが相次いだため、農民代表の井上伝蔵や落合寅市らが郡役所や警察、高利貸しに返済延期を請願しましたが、拒まれる一方でした。
 事態をどうにか打開したい多くの農民は、1884年2月の大井憲太郎の遊説をきっかけに自由党に加盟。同年8月困民党を結成し、田代栄助を首領に据え、借金返済延期や校費雑収税と村費の減免を何度も陳情しました。

 しかし、穏健な合法的運動をもってしても受け入れられず、万策尽きた農民は、明治17年(1884年)10月下旬、大井の説得にも屈せず、武力蜂起を決意します。
 10月31日に風布(ふっぷ)村が先陣を切って立ち上がり、交渉に応じない高利貸しを襲いました。
 翌11月1日には武装した数千名の農民が下吉田村の椋神社に結集、総理を田代栄助、副総理を加藤織平、会計長を井上伝蔵とし、郡役所や警察などを襲撃。2日には秩父郡すべてを掌握します。

 暴動の知らせを受けた明治政府は警察と憲兵隊のほか、鎮台兵まで出動させ、11月5日にはほとんどの暴動勢力を制圧しました。
 菊池貫平の部隊だけが残り、長野県佐久郡まで転戦しましたが、11月9日、ついに完全鎮圧されてしまいました。
 結果、30人以上が戦死、警察官5人が殉職、被告は6,400人を超え、田代ら7名が兇徒聚衆(きょうとしゅうしゅう)罪により死刑、20余人が獄死しています。

 自由民権運動史に刻まれるこの最大の暴動事件は当時、[秩父暴動][秩父騒動]と呼ばれ、明治政府は、一部の壮士や脱獄者、侠客らが農民をそそのかして起こしたものと捏造し、報道各社も政府を恐れ、真相を報じませんでした。


   


[平成30年(2018)10月31日]掲載