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9月11日
今日の歴史的事件
田沼意次誕生

歴史行路編集部
歴史行路編集部
田沼意次誕生




 今日、9月11日は――

 江戸時代中期、幕府の側用人や老中などを勤めた田沼意次が生まれた日です。
 享保4年7月27日(1719年)のことでした。

 田沼意次は、紀州藩徳川吉宗が8代将軍になる際に江戸へ随行し、新参旗本となった父・意行(もとゆき)の息子として生まれました。
 江戸城内の田安御用屋敷で産声をあげたそうです。

 9代将軍徳川家重の西ノ丸付御小姓として仕えていた意次は、元文2 年(1737年)の主殿頭(とのものかみ)叙任を足がかりに、宝暦元年(1751年)に御側御用取次、宝暦8年(1758年)には大名に取り立てられ、遠江(とおとうみ。現在の静岡県)相良(さがら)藩主となりました。

 家重の死後も、10代家治に重用され、明和4年(1767年)、側用人に昇ると、築城を許されて城主となっています。
 そして、安永元年(1772年)、ついに老中の座につきました。

 意次は息子意知(おきとも)とともに、明和・安永・天明の頃、問屋・株仲間の育成、貨幣改鋳、蝦夷(えぞ)地の開発と交易、鎖国を緩和しての金銀輸入、印旛沼・手賀沼の干拓、吉野金峯山の鉱山開発、貸金会所の設置など、重商主義の経済政策を積極的に進め、全盛期には「田沼の時代」と称されるほどの権勢を振るいました。

 しかし天明4年3月24日(1784年)、前年に若年寄になったばかりの意知が、田沼父子に恨みを抱く新番の佐野政言(まさこと)によって江戸城中で斬られてしまいます。
 殿中での刃傷沙汰でしたが、田沼父子の政策は役人の賄賂横行や物価高騰を引き起こし、折悪しく天明の飢饉も発生してしまい、守旧派の武家や町民らの反感を買っていたため、佐野は世間から「世直し大明神」と呼ばれました。

 手当ての甲斐なく意知が死んでしまってからの意次は徐々に権力を失い、天明6年8月25日(1786年)、とうとう家治の死によって失脚してしまうのです。
 隠居謹慎、相良城破却、1万石へ減封など、2度もの処罰を受け、失意のうちに天明8年7月24日に亡くなりました。
 田沼意次、70歳のときでした。


   


[平成30年(2018)9月11日]掲載