峠道で茶屋を商っている老夫婦の茂兵衛ときよは、そろそろ歳のせいもあって山で過ごす毎日がつらくなってきている。国一番の回船問屋に暖簾分けを許された長男は四人の孫と一緒に暮らそうと言ってくれているし、嫁も行き届いた娘なのだが、茂兵衛は世話になるかどうか悩みあぐねていた。そんなある日、旅装の侍が茶屋にあらわれ……。『真珠湾の暁』(2002年11月、徳間文庫)に収録された幻の短篇小説。

第1話

葉桜

 茂兵衛は女房のきよと一緒に作倉峠の茶屋をあきなっている。近隣の町や村からは山道を半日分ほども離れているので、周囲にはなにもない。風が吹くたびにざわざわとはやしたてるにれ林、ぼとぼとぼと、とヤマドリがをうつ音ばかりが響くときなど、この世に生きているのは自分たちだけではないか、と心細い思いを抱くほどだった。
 それでも若いころは年中商いをした。作倉峠は楽な道ではないが、海沿いの街道を進むよりうんと道のりを縮められるだけあって、よほどの悪天候でもない限り、毎日必ず客があった。峠の厳しさを知る旅の者たちは茂兵衛の茶屋に立ち寄り、きよの入れた茶や茂兵衛のこしらえた草団子で一息入れてから、残りの道のりへ踏み出した。
 しかしだんだんと冬を越すのがつらくなってきた。夫婦でどうしたものかと案じていた時、御城下で独り立ちしていた長男がせめて半年は一緒に暮らそうと言ってよこした。長男の伊蔵は茶屋を継ぐことを嫌い、親族のをたどって国一番の回船問屋、大洲屋へ奉公し、でつ、手代、べつを二十年ばかりで済ませてれん分けを許された店がどうにか形になったからだった。
 冬のあいだとはいえ、息子の世話になることについて茂兵衛は迷いがあったが、きよに押し切られた。きよは息子の成功を素直に喜んでいたし、四人の孫と会えることをなによりも楽しみにしていた。嫁のおかげもあったかもしれない。伊蔵の嫁は大洲屋主人吉蔵が探してくれた身元の確かな、しつけの行き届いた娘で、きよとどれほど顔をつきあわせていても嫌な顔ひとつ浮かべることはなかった。
 冬のあいだ、商人としてのかんろくがついた息子の家で過ごすことはおもいのほか楽しかった。厄介になってひと月もしないうちに茂兵衛は退屈したが、伊蔵はそれを見計らったように、お父っつぁま、毎日、お客様にお茶うけでお出しする団子をつくってくれないかねと言い出した。もとより茂兵衛に否応もない。伊蔵が揃えてくれた道具を使って団子作りに精をだした。茂兵衛の団子は町で売られているものとはおおいに異なる草深さがあったからすぐに評判になり、伊蔵と取り引きする客の中には、いっそのこと町に店を出せばいいとすすめる者まででる始末だった。

txt_nextLogin

既存ユーザのログイン
   
佐藤 大輔

佐藤 大輔

さとう だいすけ

著者紹介ページへ