島津三国志 島津義弘公 大河ドラマ 誘致委員会 コラボ企画
 霧雨の中、十三基の地蔵塔の前で佇む、若者がひとり――立派な体つきだが、粗末な継ぎ接ぎだらけの身なりは、貧しさとの闘いをうかがわせた。鬱蒼とした樹々に溶け込んだかのような若者の背後へ、ふいに白髭の老人が現れた。驚いて立ち去ろうとする若者に、老人は杖をつきながら、関ヶ原の戦いで島津義弘が決行した敵中突破を訥々と語り始めた……。

第5話

遙かな海〈三〉

     三

 坊津は加世田から南西にあたり、複雑に入り組んだ海岸の地形を活かした湊である。ひとつの湊ではなく、ぼうとまり秋目あきめなどの浦の総称として、坊津と呼ばれていた。
 日本から中国に向かう船の出発点、まさに、

 ――陸が終わり、海が始まる所。

 である。一方、薩摩半島の東南側には、山川湊という火山の噴火口がそのまま湊になったような所である。
 これらの湊が島津家の直轄ちょっかつ支配を受けるのは、又四郎の兄・又三郎、つまり義久が島津家当主になってからのことである。

 だが、又四郎たちの父・貴久は十五代当主として、形式ではあっても、薩摩、大隅、日向の守護として、敢然と実績を重ねていた。父の日新斎が、勝久かつひさ宗久むねひさとの複雑な分家同士の争いを終わらせ、島津家の本宗家は貴久が継ぐことに安泰していたからだ。北郷家ら有力な豪族らも、貴久のことを守護として認めていたからである。
 今後、大隅の蒲生氏や薩摩の菱刈氏や入来院、さらには日向の伊東いとう氏らを屈伏させるためには、古来より続く交易を掌握することが肝心かなめであると、日新斎は常々、貴久に説いていた。

「所領は土地だけとは限らぬ。かつて、関東の北条ほうじょう氏は、南西諸島まで支配していた。とはいっても、地頭や郡司ぐんじによる上納の仕組みだけであって、我ら島津のように七島衆ら海民を従わせていたわけではない」

 日新斎の指示を仰ぐまでもなく、貴久は三国を実質支配するには、交易の拡大しかないと考えていた。薩摩は元々、土地もせており、その地形も、田畑を広げて作物を増やすのに適していない。おのずと中国や琉球との交易を増やす道しかないのだ。
 薩摩の南の海には、種子島たねがしま、屋久島、中之島、諏訪之背島すわこれせしま、奄美大島、徳之島、沖永良部島おきのえらぶじま、与論島など多くの諸島があり、東シナ海の航路の大動脈であった。
 これらの島々が、薩摩藩領とされるのは、慶長けいちょう十四年(一六〇九)のいわゆる〈琉球侵攻〉以降になるが、当時は琉球王朝と薩摩の間で対等の交流がされていたのである。

井川 香四郎

井川 香四郎

いかわ こうしろう

著者紹介ページへ