島津三国志 島津義弘公 大河ドラマ 誘致委員会 コラボ企画
 霧雨の中、十三基の地蔵塔の前で佇む、若者がひとり――立派な体つきだが、粗末な継ぎ接ぎだらけの身なりは、貧しさとの闘いをうかがわせた。鬱蒼とした樹々に溶け込んだかのような若者の背後へ、ふいに白髭の老人が現れた。驚いて立ち去ろうとする若者に、老人は杖をつきながら、関ヶ原の戦いで島津義弘が決行した敵中突破を訥々と語り始めた……。

第2話

敵中突破

     一

 慶長五年(一六〇〇)九月十五日――。
 関ヶ原に結集した徳川家康とくがわいえやす率いる東軍と、石田三成いしだみつなり率いる西軍は、合わせて総勢十六万人もの兵に上り、無数の騎旗で埋め尽くされていた。
 前夜から降っていた雨がやみ、霧が晴れた辰の刻(午前八時頃)のことだった。
 東軍の井伊直政いいなおまさ勢が、西軍の主勢力で、天満山に陣取っている宇喜多秀家うきたひでいえ陣営に攻撃をかけて火蓋が切られた。すぐさま、東軍先鋒の福島正則ふくしままさのり藤堂高虎とうどうたかとら京極高知きょうごくたかとも黒田長政くろだながまさ細川忠興ほそかわただおき加藤嘉明かとうよしあきらら各勢が呼応し、西軍の小西行長こにしゆきながにも攻め始めた。
 だが、大谷吉継おおたによしつぐ戸田重政とだしげまさ木下頼継きのしたよりつぐらの西軍勢も反撃を開始し、戦上手と評判の宇喜多、小西らが結束して、ジリジリと東軍を押し返した。

 戦況は一進一退を繰り返していたが、関ヶ原は狭い盆地である。高台に陣取った西軍の方が、明らかに有利に展開していた。
 しかも、桃配山ももくばりやまの徳川本陣の後方や側面を突けるように、南宮山なんぐうざんの山麓には、西軍の長束正家なつかまさいえ毛利秀元もうりひでもと安国寺恵瓊あんこくじえけい長宗我部盛親ちょうそかべもりちかの軍勢も配置されており、総勢も東軍より一万人ほど多かった。
 陣取りから見れば、明らかに西軍の勝ちだった。
 しかし、東軍の総大将・徳川家康が合戦場に本陣を構えたのに対して、西軍の総大将・毛利輝元てるもとは、大坂城に入ったものの前線には来ていない。豊臣秀頼とよとみひでよりを守るためとはいえ、集まった諸将たちの士気に関わることだ。
 実質の大将は石田三成だが、豊臣方にあっても、武官というより、文官の印象が強い。必ずしも、諸将から全幅の信頼をおかれている立場ではなかった。

 東軍が優勢に逆転したのは、午後になってのことだった。
 松尾山まつおやまに陣取る小早川秀秋こばやかわひであきが、徳川家康から受けた一発の鉄砲によって、西軍を裏切ってからである。小早川秀秋は若冠十九歳、石田三成が四十一歳に対して、家康は五十八歳の老獪ともいえる年齢である。貫禄の違いがありすぎた。
 だが、大谷吉継は寝返ることを予想しており、小早川勢を一度は撃破したものの、赤座吉家あかざよしいえ小川祐忠おがわすけただ朽木元綱くつきもとつな脇坂安治わきざかやすはるまでもが反旗を翻した。ここまでは読めていなかった大谷は、激闘を尽くしたが、自刃に追い詰められたのである。合戦場で武将が切腹するのは珍しいことだったが、それだけ壮絶な戦いだったのだ。
 さらに、南宮山から、家康本陣の後ろを攻めようとした長束や毛利に対して、同じ山に陣取っていた西軍の吉川広家きっかわひろいえが裏切り、ますます混乱を極めた。
 これを機に、東軍は勝ち鬨を上げながら、総攻撃をかけ、家康本陣も前進した。それに対抗して、石田勢、宇喜多勢、小西勢らも怒濤のような咆哮を上げながら槍や刀を振るい、鉄砲の音は天地に轟かせていた。
 その激突の様子を――。
 小関村に陣取った島津義弘は、冷静に見守っていた。

井川 香四郎

井川 香四郎

いかわ こうしろう

著者紹介ページへ