夫婦逍遥 鳴かぬ蛍

 旗本朝倉家に嫁いで十年。つねに自分で作ってきた弁当に、お志寿は思い入れがあった。愛する夫冬馬の役に立ちたい、体の具合を知りたい、そんな気持ちが料理一つひとつに込められているからだ。しかしある日、小さな異変が起こる。空になった弁当箱に、飯粒がぽつぽつ残っていたのだ。いつも冬馬はひと粒も残さないで食べるはず……。お志寿の心にさざ波が立つ。

第1話

鳴かぬ蛍

 人にはそれだけは譲れない、というものがある。
 お志寿しずは、五百五十石の旗本朝倉あさくら家の奥方だから、もちろん殿様の弁当を自らこしらえて、空になった弁当箱を自分で洗わねばならないはずもない。
 だが、四つ年上の冬馬とうまに嫁いできて十年、弁当だけは自分で作って、空箱も自分で洗い続けた。
 それは、書院番として、朝番、夕番、寝番の三交代をこなす夫への、自分なりに役に立ちたいという気持ちの表れでもあった。
 また、夫の体調の変化を察することのできる、大切な日々の機会でもあった。
 そんな気持ちで弁当に接していたので、お志寿は、すぐに異変に気が付いた。
 仕事から戻ってきた夫を出迎え、荷物持ちの中間の平吉へいきちから弁当箱を受け取ると、夫のいないところでまず空箱を開ける。
 弁当箱は漆塗りの楕円の二段の箱で、代々書院番を務める朝倉家の家長が使ってきた歴史あるものだった。何度も修理を繰り返して使っている。
 この日の冬馬は寝番で朝帰りだったから、家士が朝食の支度を整えている間に、お志寿は弁当箱を開けて、

「あら」

 と小声で呟いた。
 空になった弁当箱に、ご飯粒がぽつぽつと何粒か散らばって残っていたからだ。
 こんなことは今までにないことだった。夫冬馬は、いつも食事は感謝をしながら、飯粒もひと粒たりと残さずに、きれいに食べる人だ。
 お志寿は夫が持ち帰った弁当箱を、じっと見つめた。
(なにかあったのかしら)
 お勤め先の江戸城内で、弁当を落ち着いて食べられぬような何かが起こったのかもしれないと訝しんだ。
(それとも別のお人が食べたのかしら)
 冬馬は優しい男だ。もし、仕事仲間の誰かが弁当を持参するのを忘れていたら、何かと理由を付けて自分の分を譲るくらいのことはやりそうな性質たちだ。
 どちらにしても、取り立てて騒ぐほどのことでもなかった。

夫婦逍遥 ~鳴かぬ蛍~

秋山 香乃

秋山 香乃

あきやま かの

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