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雨宮 由希夫
雨宮 由希夫

うつけ世に立つ

岐阜信長譜

早見俊/著

出版社:徳間書店
刊行年月:2016年9月9日
価格:2,000円+税
判型:四六判上製

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『うつけ世に立つ』を読んで

 信長について、好きな人は、信長は英雄であり、改革者であると讃え、一方、嫌いな人は、信長は暴君、蛮人であり、独裁者であると眉をひそめる。
 たとえば、作家の立松和平は「信長という時代の変革者はただ破壊するだけでなく、次の時代への展望があった。これは他の戦国大名にはなかったことである」と信長を讃えてやまない(『織田信長――「信長公記」紀行』 勉誠出版 2010年2月刊)が、歴史家の池上裕子は「信長の〈天下布武〉とは調略用語にすぎず、容赦のない殺戮戦を展開した信長の戦争は敵を徹底的に破壊する信長流の報復戦であって、ここには古いものを壊す〈革命児〉の姿はない」(『織田信長』 吉川弘文館 2012年12月刊)と問答無用である。
 来る平成29年(2017)は信長が岐阜に入城した永禄10年(1567)から数えて450年の節目の年にあたる。
 本書は岐阜市“信長公450プロジェクト”との特別コラボレーション企画として、ウェブサイト“歴史行路”に2015年6月から2016年5月まで連載された早見俊の「せいすいの都 岐阜信長譜」が底本となっている。少年時代から岐阜入城までの信長を描いた作品としては安部龍太郎の『蒼き信長』(上下巻/毎日新聞社 2010年1月刊新潮文庫 2012年11月刊)があるが、岐阜市出身の歴史小説作家として白羽の矢が立った早見は、安土城築城から本能寺の変に至る信長の後半生を大胆にもカットし、岐阜時代の信長にしぼって渾身の筆をふるってっている。
 尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元をやぶった信長は、ついに、美濃攻略に本腰を入れるべく、永禄6年(1563)7月、清州城から小牧山城に移り、美濃攻略の根拠地としている。
 本書は、永禄10年(1567)8月、秀吉が斎藤龍興の重臣で美濃三人衆といわれた稲葉良通(一鉄)、安藤守就、氏家直元(ぼくぜん)を調略するシーンからはじまる。8月15日、美濃三人衆の内応により龍興を稲葉山城に攻め陥れ、 信長34歳はついに父信秀以来の悲願であった美濃征服を実現。岳父斎藤道三ゆかりの稲葉山城を岐阜城と改名して自らの居城とし、「天下布武」の四文字を印文とする印判状を発給、天下統一のための力強いスタートを内外に宣告する。翌年には、早くも足利義昭を奉じて上洛している。
 主な登場人物は、信長の正室帰蝶(濃姫)はもちろん、斎藤龍興、氏家直元・直昌父子、明智光秀など岐阜にゆかりのある人物である。岐阜出身の作家として早見には岐阜における信長に対して一種独特な心情があるのであろう、作家の造形力が強く打ち出され、彼らの人物像がこれまでの〈信長もの〉歴史小説には見られない異色の光彩が放たれている。
 信長の正室帰蝶(濃姫)がどう扱われているか、読者は先ずそこに注目するであろう。信長15歳と美濃国主・斎藤道三の娘・帰蝶14歳の結婚は典型的な政略結婚であった。上洛への足掛かりとして美濃を狙っていた信長にとって帰蝶は「天下」への夢をつなぐものであり、美濃衆を味方に付けるためには必要な存在、織田斎藤同盟のくさびであった。
 しかるに、帰蝶は、ついに信長の子を産むことはなく、正室でありながら、いつ死亡したのかさえ不明であるという。本能寺の変の後まで生きたという説もあれば、帰蝶は実家に返されたとする説もあり、弘治2年(1556)4月、斎藤道三が嫡男義龍との戦いに敗れ死去した直後に、史料上、名前が消えることから信長とは離別したのではないかとみる研究家もいる。
 本書は、心を許したこともない名ばかりの夫婦関係にあった二人が、永禄10年(1567)暮、岐阜城下の草庵で、11年ぶりに再会すると物語る。帰蝶が信長と離別したのは、信長の愛妾吉乃(生駒氏)が信忠を懐妊した弘治2年夏ごろと、作家はみなしているのであるが、それに加えて、落飾し、亡父のだいを弔っているばかりの帰蝶ではなく、信長打倒という望みにすがることで命永らえている帰蝶が活写されているのは興味深い。
 明智光秀とは何者なのか。光秀は帰蝶の母・小見の方(明智氏)の遠縁で、光秀と帰蝶の二人は幼馴染み、その線で、光秀は信長に仕えることになったとの説があり、永禄7年(1564)頃、信長に仕え始めたとするのが有力だが、本書では、永禄10年(1567)普請中の岐阜城にて、越前朝倉の家臣の光秀が信長への会見を求める形で、信長に会ったとしている。また、光秀と帰蝶及び道三との繋がりには特に触れられていない。なお、宮本昌孝の最新作『ドナ・ビボラの爪』(中央公論新社 2016年8月刊)は道三の側近であった光秀が本能寺の変を策すさまを信長に殺された帰蝶の生涯にからませて描いている。
 斎藤龍興は斎藤家二代目義龍の長男で、道三の孫である。信長が岐阜に入城するや、美濃国主の座を追われ、木曽川を船で下って、伊勢の長島へ落ちていく。永禄12年(1569)1月、三好党によるほんこくの将軍足利義昭襲撃に加わっていること、天正元年(1573)8月、朝倉義景が信長に追討されたときの越前の刀禰山の戦いで朝倉軍に与して敗死(26歳)していることが断片的にわかっているが、本書では、信長打倒、美濃国主への返り咲きをもくろむ龍興が活写されている。出家するとの信長との約束を違え、伊勢長島の一向宗徒に加わることにはじまり、龍興は生涯、反信長戦線の一翼を担って戦い続ける。
 史実がわからず想像力で埋めなければならない部分には、架空の人物が配されている。父親を織田軍に殺されたしょうの弥吉もそのひとりで、信長は信長を憎む弥吉に岐阜で戦を起こさない、鵜匠が安心して鵜飼を続けられる世、笑って暮らせる世を創ると約す。比叡山を焼打ちし、一向一揆の門徒衆を虐殺する現場を直に見ている安楽庵策伝は、弥吉と約束を交わす信長を垣間見て、「織田信長、あなたは一体何者なのですか」と問う。この問いかけは作家自身の問いであろう。なお、落語の祖ともいわれている安楽庵策伝は実在の人物で信長の直臣金森長近の年の離れた弟であるという。
 信長という人は、一つの目的を成し遂げるためには、手段を選ばず破天荒な生き方をした人物である。どのような信長像を描こうとも、〈信長もの〉歴史小説を書く作家に求められるものは最終的に「信長とはいったい何者なのか」を読者に納得させることであろう。
 天正4年(1576)2月 信長43歳はこの城を嫡男信忠に譲って、安土へ移る。足掛け10年、信長は岐阜に住んだことになる。
 信長は、山麓に壮大華麗な城館を建てた。現在、岐阜公園になっている千畳敷が信長の居館跡と比定されている。本書では、優れた京文化の後見役にならんとし、京の都から評判の庭師を呼び心血を注いで作庭する文化人信長を描き、信長の文化面の貢献を強調している。
 信長といえば、「うつけ」と呼ばれていた時期があったことで有名である。少年時代の信長の出で立ちは、『信長公記』に、髪はちゃせんのように結び、腰に火打ち袋をぶら下げ、朱色の太刀をさして歩いたとある。父信秀の葬式で、茶筅まげに袴も着けないかたびらのいでたちで、抹香をつかんで仏前に投げつける大うつけぶりは若き日の信長を語るに欠かせないが、うつけとは単純に馬鹿の意ではなく、「中味が空っぽなこと」であると作家はいう。
 本書の書名、『うつけ世に立つ』は「うつけ信長が世に立つ」のではなく、「うつけ世に、信長が立つ」の意である。信長によれば、うつけなのは信長自身ではなく、世の中の方がうつけであり、最後の将軍足利義昭は「うつけ公方」、比叡山延暦寺は「うつけ寺」というわけである。天正とは天下を正すという意味で、天正への改元はうつけ世ではない本物の世を創るという信長の強い意志が込められている。
 信長がろうがいで衰弱した帰蝶を抱き上げ天守に登るラストシーンは感動的である。稲葉山、現在は金華山と称されている山頂にそびえる岐阜城天守から雄大な濃尾平野が一望できる。信長の頃には、天空から下界をちょうかんする感の趣があったであろう。


 去る10月12日、歴史小説の魅力を世に広め、このジャンルの認知度を高めたいという熱い思いを共有する歴史時代小説家有志が「そうの会」を立ち上げ、第1回の歴史講演会が開かれた。テーマは信長で、本書をテキストとして早見俊が栄えある第1回の講師を務めたことを付記する。

平成28年(2016)10月29日
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